松山支部

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第360回松温会6月例会報告

更新日:2015年10月19日

「第360回松温会6月例会」を開催

 平成27年6月18日(木)正午より、いよてつ会館にて「第360回松温会6月例会」が開催され、52名の卒業生や大学関係者が参加した。まず、秋川会長より「今年は戦後70年になる。松山大学の歴史をひもとくということで、大先輩である神森先生に卓話をお願いしました。松温会参加者の多くは戦後生まれで、戦中戦後の厳しい時代を知らない世代になった。また、2017年は温山会設立90周年の年である。松山大学の歴史についての話を伺うことで、新しい時代に向けて活動を活発にしていきたい」との話があった。以下、神森先生の卓話。
昭和19年の難(商業學校の悲哀)

 熱弁を振るう神森先生

 昭和19年は商業學校の悲哀の年、商業學校が迫害を受けた年である。士農工商の言葉通り、「商業」の社会的な地位は低かった。高等商業學校の名前が国の命令で強制的に経済専門學校に変更された。また、東京商科大學(現一橋大學)は東京産業大学に、神戸商業大學(現神戸大)は神戸経済大学となった。全国の高等商業學校は経済専門學校と改称されたが、それだけではなく、経專は學校数が半分になり、官公立の高商、私立の高商の半数が工業専門學校(それまでの高等工業學校)に強制的に転換させられた。さらに、経専として残った学校も学生定員が半分となった。結局、高商で学ぶ生徒は四分の一に減少し、商業と商業學校への弾圧のような国の政策だった。田中校長は、松山高商が経専として残ること、それまでの入学定員200を維持することに心血を注がれたが、当時の文部省が松山高商に好意的であったことも幸いして、福知山高商を吸収合併することによってそれまでの入学定員200名を維持できた。昭和19年4月には、松山高商~経専の生徒1~3年生の600名に、福知山から来た2年生200名よび3年生200名が加わり、合計1,000名の生徒がいて、校内は雑踏した。しかし、それも束の間、同年9月には3年生400名は繰り上げ卒業。10月からは通年動で、軍需工場に行き、学園は空っぽになった。
(補1) 前年の昭和16年までは、旧制の中等學校(旧制中学、旧制商業、旧制工業など)からは、5年卒業見込みでなければ、旧高商や旧高工などを受験することはできなかったのが、19年の2月、突如4年終了見込みの資格で受験できるように制度変更が行われた。私は、この制度変更のお蔭で、19年度入学ができた。この制度変更がなければ、私は20年度入学の23期生だった。
(補2)昭和19年度入学試験から英語が試験科目から外された。敵性外国語という理由。
(補3)英語を敵性外国語と言って排斥しながら、シナ語は重視した。4クラス中の1組は、英語が第1外語、ドイツ語が第2外語、2組は英語が第1外語、シナ語が第2外語、3~4組はシナ語が第1外語、英語が第2外語だった。

昭和19年後半は通年勤労奉仕
 学生生活は、前期が吉田浜の海軍飛行場(現松山空港)での堰堤造りを中心に日帰りや短期間の勤労奉仕が学生生活の大部分を占め始めていた。我々1年生は、夏休みの前後それぞれ1週間を兵庫県の三木で飛行場造りの勤労奉仕をした。夏休み後は三木に現地集合した。後期は10月1日から通年動員となり学校は空っぽの状態となり、2年生は長崎の造船所、我々1年生はクラス別に別れて、新居浜、波止浜、名古屋に動員された。市内から通学する生徒が防空要員として残っていた。グラウンドは、防空要員の手で掘り返されていも畑となっていた。戦後授業が再開されてもそのまま残り、グラウンド返せ運動が起こったりもした。生徒がいないので、空いた教室・旧本館には22連隊の兵隊さんも入って、何日か滞在し戦地に出て行ったようだった。大変立派な木造の剣道場・柔道場があった(今の体育館のところ)が、校内に兵隊さんが入るので、教室の机や椅子を武道場に入れておいたところ、空襲の時全焼、戦後授業再開にさいして支障となった。旧本館から兵隊さんが出た後、逓信局(電通と郵政を合わせた役所)が入つたが戦後もそのままで、町中焼野原なので、なかなか出てくれなかった。
【写真下:出征する級友を見送る(昭和19年)】

出征する級友を見送る(昭和19年 )(写真下:校舎の大半は昭和20年の空襲にて焼失)

校舎の大半は昭和20年に焼失昭和20年、23期生
 20年度23期生の入学式は、文部省の指示で4月ではなく7月にあった。1日の授業もすることなく、翌日から予土道路建設に動員されたが、すぐ終戦となった。我々22期生は2,300人の受験生で定員厳守だった。補欠入学の生徒が入学式後にやってきたことがあった。23期生は受験生が多く4,000人を超えていた。
 この年、文部省の方針が変わり、定員に関わらず、いくらでもとれということになった。学生・生徒は、工場労働者として手っ取り早く動員できるためであろうか。当時の学生・生徒は、文字通りの学生・生徒ではなく、工場労働者であった。

加藤会館(昭和21年) 7月の松山空襲により木造の2・3・4号館と武道場(前述)が焼失し、旧本館は逓信局が入っていて使える教室がなかった。20年度授業開始は10月下旬で、我々2年生の半分は加藤会館(写真右)の2階で床に座って授業を受けた。2年生の残り半分と1年生(23期生)は松前の東洋レーヨンを借りての分散授業だった。3年生は9月卒業制で既にいなかった。
        (写真右:昭和21年当時の加藤会館)    
昭和22年 田中校長・浜田教授 マッカーサー・パージ
 22年2月マッカーサー・パージで田中先生が学校をやめるようになった。浜田先生は商法や憲法の授業をしており、高商第1回の卒業生でもあつたが、憲法の論文が災いしやめさせられた。逆に、授業中、「君たちは折角入学したのだから、卒業してから軍隊にいけばいい」と言ったことからと追放されたアメリカ留学経験のある古川教授は復活した。また マルキシズムの汚染の故をもって辞めざるを得なかった住谷教授も復活し、古巣の同志社大学に行った。

昭和23年 大学昇格運動
 
現在の6・3・3・4制の大学が昭和24年からスタートする、その前夜、昭和23年の大学昇格運動の年。旧制の高等専門學校が大学になるのは難しかった。松山経専は田中先生が旧帝大である台北帝大、東北帝大、九州帝大等に引き抜かれて行っていたような優れた教員を集めていた。また、図書も焼けなかった。1階が書庫と閲覧室で2・3階は吹き抜けの講堂で鉄筋だったために戦災に遭わず、好条件の下で大学昇格が可能になった。旧制の高等専門學校は、文部省から短大になるか高等学校になるかという指導のあった中でのこと。因みに、鹿児島高商は短大になり、その後しばらくたって大学になった。

昭和24年 松山大学商経学部経済学科・経営学科 発足  松山商大~松山大学の発展
 昭和24年松山商科大学商経学部として、経済学科・経営学科の2学科でスタートした。短大が昭和27年から、昭和37年商経学部を発展的に解消して経済学部・経営学部、昭和49年人文学部・社会学科・英語英米文学科、昭和63年法学部、平成18年薬学部(6年制)。大学院は昭和47年経済学研究科修士課程、昭和49年経済学研究科博士課程、昭和54年経営学研究科修士課程、昭和56年経営学研究科博士課程、平成18年社会学研究科修士課程・博士課程、平成19年言語コミュニケーション研究科修士課程、平成26年薬学部博士課程(4年制)と大学がここまで発展・充実してきた。
 新制大学は178校でスタートした。その内私学は92校、国公立は86校。現在、大学は781校、その中私学が603校、国立86校、公立が72校で、ずいぶん増えた。小泉純一郎による小泉改革があり、平成3年7月に大学設置基準が変更された。そのとき大学数は514校、内私学が378校。その当時の514校から現在781校に、私学は378校から603校に増えている。私学の中には40%を超える割合で定員割れになっている大学がある。フランスの経済学者ピケティは「21世紀の資本論」の中で、アメリカの大学は850校ほど。人口が日本の2.5倍になるから、アメリカに合わせたとすると日本の大学は340校もあればよいことになる。だから、定員割れは当然だろう。その上に、高等学校卒業後入る専修学校が2811校ある。文部科学省ではその内470校に、半ば大学の仲間入りをと考えている。
 戦後、大きく変わってきたのは進学率。、昭和29年の進学率は大学7.9%、短大が2.1%で合わせて10%になる。平成26年度は大学進学率が57%。文部科学省は大学をまだ増やそうとしている。その上18歳人口の低迷がある。小泉構造改革のときの204万人がピークで、現在は120万人だ。18歳人口がどう動くのかは、18年前には分かっているのだから、国はもっと計画的にやってほしい。

 松大の戦略
 
新田長次郎の戦略
 「金は出すが、口は出さない、理事にも理事長にもならない。卒業生は会社には雇わん。學校のことは學校 に任す。」

 第3代の田中忠夫校長野戦略
 
「日本一の高商を目指す。36歳の時に校長になったが、田中校長は犠牲者でもある。2年間ドイツに留学し学者として本格的に道を歩もうとしたときに、戻って1年目で学生課長、次いで、教務課長、さらに校長をということで、研究できなくなった。これは学校の期待を裏切ることになる。昔は、私学は国公立を定年退職した教員を雇って、低人件費で運営していたが、松山高商は若手の研究者を揃えて運営していた。(これは、新田さん、加藤校長の戦略)田中先生もその一人であるが、校長・専務理事(今の理事長)として、学校経営の責任者にならされて、研究面では犠牲者となってしまった。
 田中先生は校長に就任するや、官立の高商を調査して、その教授会への報告の中に、「名古屋高商(現名古屋大学)に追いつくには少し時間がかかるが、あとはすぐ追いつき、追い越せる」という報告があったという。
 また、1991年の統計では、松山大学は産業界で重役の地位にある者の数は、国公私立大学中多い順で51位。私立だけでは19位、香川大(高松高商が母体)の次におり、大分大(大分高商が母体)は松大より6番下に名前が見える。こんなところにも、「日本一の高商」という田中先生が目標とされた戦略の余韻が残っている。すんなり新制大学に昇格できたのも、田中戦略(充実した教員・図書等)のお蔭だ。

 新制大学への昇格
 
当時、旧制松山高等學校(現在の愛大付属小・中学校のあるところにあった)、愛媛師範學校、新居浜工業専門學校、県立農林専門學校と松山高商も合わせて一つの大学、愛媛大学を作るという話があった。その時、伊藤秀夫さんの「新田さんにすまん」の一言で単独での大学昇格を目指すことが内部で決したという。

 八木学長の医学部設置構想
 昭和40年代の半ば八木学長の時代に医学部設置構想があり、候補地(伊予市)もあったが、文部省が各県に一つ医学部を設置するという情報が入って断念した。その後、愛媛大学医学部が昭和49年にできた。

 八木学長の人文学部構想

 50周年記念大学祭    (昭和48年) 医学部の代わりと言っては変だが、人文学部が誕生した。当時の展望として、女子が入学する学部が必要ではないかでということで、社会学科と英語英米文学科を昭和49年度に開設した。医学部構想よりスケールは小さいが、当時の将来展望として、女子の進学率が伸びるであろうと判断して設置したもの。直後は緩やかに伸び、このあと4~5年してから、女子の進学率は急速に伸びてきた。此の戦略は当たったといえよう。
【写真左:50周年記念大学祭(昭和48年)】

法学部は39年遅れの設置
 昭和24年に大学ができたとき、第1回の入学生に渡した「学生便覧」の最後に「将来計画」として法学部をできるだけ早く設置する旨が記載してあった。こうした法学部設置構想は、星野先生という超有名学者がいたことから、世間の要望も生まれたものと思われるが、設置されたのは、実に、39年遅れの昭和63年度。しかし、法学部ができたからといって公務員関係の就職者が増えるでもなく法曹界に入って判事や検事や弁護士になるわけでもなく、法学部の存在理由には強いものが感じられない。まだ、大学院ももっていない。ただし、国家公務員の1種試験に合格して、法務省に入った者、財務省に入った者がそれぞれ1名いる。後に続く者がどんどん出てほしい。

 薬学部ができて総合大学
 「文理融合」という言葉が聞かれ、また志願者の文系から理系に重点移動が予想される中での構想。設置当初はよかったが、6年制ゆえ一時全国的に志望者が減った。現在は増加中。それに、一般に、理系・工学系は増加傾向であるのに対して、経済学・社会科学系は減少している。学問のせいでも指導の先生が悪いのでもない。いくらいい卒論を書いても、就職先はほとんどが第3次・第4次産業だ。それも、今は、セールスマンも、例えば、自動車の販売員の場合、文系の卒業生より、機械工学をやった者の方が客の質問に対応できるから良いとされる時代になって来た。
 ここ数年の統計を見てみると、志願者が増えている学部・学科は、看護学科やリハビリテーション学科 だ。6年制になって減少し、その後増加に転じている薬学部と同様の傾向を示しているのが、文科系の中でも法学、経営学、商学だ。増え方は大きくはないが緩やかに増えている。そういう傾向を考えて松山大学の将来を考えてもらいたいと思っている。
(写真下:2016年3月完成予定の新キャンパス)

061615_0500_904.jpgあとがき(松大最近の財政状態)
1 平成17年度(薬学部校舎建設)~26年度の10年間の会計を国立大学方式(これは会社会計法に同じ)に組み替えると、純利益23.6億円(利益24.6億円・損失1億円)、1年平均の純利益は2億3千6百万円です。
2 同じく平成17年度から26年度まで10年間の資金(即時支払資金と貯金の合計額)の増加額は6.3億円です。
3 又、同じく平成17年度から26年度までの10年間に、負債(借金)は6億円減少しています。

                  総じて、財政状態はきわめて健全です。

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